沼






自由時間を知らせる笛が、煙を上げるコンクリートの上を滑っていく。


みんながみんな、思い思いに飛び込んでいく。

灼熱のプールサイドにわざわざ残る理由も無いからだ。


私も、のろのろ右足から浸かっていく。

いったん縁に腰をかけ、そこから一気に水中へ滑り込む。




頭の先まで、在るか無きかの圧迫感に包まれた。

これ、全部水の分子なんだよね、と友達がさっきぽつりと言ったのを思い出す。



浮遊感を利用して、思い切り水面に顔を出した。




息を吐き、吸う。

顔を振ると、水滴が周囲に散る。

みんなびしょぬれだから、誰も気にしない。



腕を水面から出して、滴る分子達を眺めてみた。



 あんたらも報われないね。

しがみつきたくても、相容れないからするすると私からこぼれていく。

かろうじてしがみついても、温度に邪魔されてすぐ離れ離れ。


ああ、でも、まあ報われないことも無いか。



腕の水滴を反対の手でぬぐう。また水滴が散った。





 あんたらは、私達のなかに、いやでも存在できるもんね。





そんなくだらないことを考えながら、私は軽く底を蹴った。

浮力を纏い、すいすいと進んでいく。


宙に浮くのとは違うけど、この冷たさと潤いは、とても癒される。



仰向けに進みながら、青空と見詰め合う。



「・・・・・・・」



まぶしくて、目を閉じた。

体と波の赴くまま、流される。





ああ、本当に報われない。

こんなに私は水に恵まれているのに、何故目から溢れてはくれないのだろう。





きゃあきゃあと、笑い声が水を通して反響する。


振動は伝わって、私の脳をも揺らす。




 彼は、彼女の笑い声に包まれ。

 私は、私のうめき声で涙も出ない。








「俺さ」


彼が深刻な話をするのはいつも唐突だ。



「あの子と、付き合うことになったんだよ」


でれでれと。

はいはい分かってたよ。

だいたいあんたはそういうことになると思ってた。



私は笑ってやった。


「なんだ、あんたもついに折れたの!」



こころの底から。――嘘を。









 身を引き寄せるようにして、ぐるりと回る。

惰性で進むのをやめ、とりあえず底に足をつけた。





気がつけば端だった。


ふう、と一息つく。


何故か保護者の気分で同級生達を眺める。




 ちょっと休もう。

休むほど泳いでも無いけど。




横付けされた梯子に足をかけ、プールサイドに向き合う。



「・・・・・・あっつう」






仕方なく、梯子に座り、半身浴の体で休憩する。





ぼうっと、友達が景色に変わる。

もはや人ではない。


水との境界線も、空との境界線も無い。






前髪をうっとうしげに避けた。



ぱちぱちと瞬きをすれば、水滴でぼやけた世界がほんの少し夢のように見える。







「・・・・・・報われないなあ・・・」




急に、今なら泣ける気がした。










窮屈な梯子の中で膝を折りたたみ、太ももを土台にして両肘を突く。

安定した両手で、手のひらで、顔の上半分を覆う。



ぐっと、押し当てる。





来た。涙の波。

来い来い、今なら誰かに気づかれるかもしれないし、誰にも気づかれない。



気づいてほしいの?

そうだ、私は新しく、誰かを好きにならなければならないのだ。


そうだ、誰か気づいて。誰か気づいて、私の肩を撫でて。





涙の波、私の眼球を飲み込んで、津波のように押し寄せろ。





誰か気づいて。

私の、体の中の分子達の存在に、誰か気づいて。







首がじりじりと暑くなる。






 できれば彼に、気づいてほしかったのだけど。




ぶわっと、吐き気にも似た悔しさがこみ上げる。

その感情に我慢できず、私は目を開いて、手のひらをはずした。




自分のひざ小僧がなまなましく、その向こうの水面がやたらきらきらしてる。

透き通った水分子たち。




「・・・情けない・・・」




そういう甘さとリアリスト気取りの理性が私をだめにする。

ああほら、また波が、押し寄せる前に引いていく。



また涙はどこかへ行ってしまった。











みーんみーんじわじわじわ。


蝉が私を馬鹿にする。



じりじり。


太陽が私を焼き付ける。







報われない。

何に愛されたらいいんだろう。



何に愛されたらいいんだろう。








私は体の半分以上を閉める水分子にすら、欲求を飲んでもらえないのに。








泣きたいときに限って、

彼の存在が私の中でぼうっと熱くなる。


笑い顔なんて浮かんでこない。


だって彼の笑顔はもはや誰かのものだから。







夢であえたら思われてるなんて言った馬鹿はどこのどいつだろう。



期待させんな、ばかやろう。











だれか、私をものすごく愛してください。

彼を折り取った、彼女が彼を愛するように、愛してください。


たとえ私がまだ彼の熱にとらわれていても、



彼のように折れるかもしれない。



そうしたら、私は幸せになれるかもしれない。






だれか私を、ものすごく愛してください。


そうしたら、私はきっとものすごく、きっと、ものすごく、






彼を愛した以上に、あなたを愛することが出来るのに。






そうしたら、私はきっと、彼を忘れるのに。







 熱くなった首筋を冷やすため、重力に身を任せてプールに沈む。














でも私は知ってもいる。



流れない涙は誰にも気づかれない。


だから、彼も私に気づかなかったんだと。






ああ、馬鹿。私の涙。









 END

▼ (2008/5)

わがままな少女はやっぱり報われない世界を生きている。
幸せになりたいのは本能なのにわがままなんて変な話ですが。

自分が報われない、と思ったらもうソレはどつぼに嵌ってます。沼です。
泣くタイミングが分からないっていうのもソレでしょうか。


そんな失恋とプールサイドの話。